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2020年ベイスターズの歩み ベイスターズ

横浜大洋ホエールズと共に歩いたプロ生活、エース・遠藤一彦

更新日:

 

「さあ、コロナで何も出来ない中、宣言通りに昔の選手とかについて話すわよ!
結乃が元気よく拳を振り上げて宣言した。
「こんな時だからこそ、明るくいかないとね!」
理衣も強調して元気よく言う。

「まあ、昔の話題が明るいとは限らないけれどね! 何せ弱かったし!」
「だからまた、そういうことを・・・・」
とはいえ、昔からの横浜ファンならば致し方ないところだろう。

「さあて、記念すべき一回目、一人目はもちろんこの人、横浜大洋ホエールズのエース、遠藤一彦!
「おおーっ」
パチパチパチ、と理衣が拍手をする。

■横浜大洋ホエールズ (1978 - 1992)
■通算134勝 128敗 58セーブ
■最多勝利 1983年、1984年
■最多奪三振 1983年、1984年、1986年
■沢村賞 1983年

「こうして改めてみると、やっぱり凄いね!」
「勝利数は150に届いていないけれど、最多勝2回、沢村賞も獲得しているからね!」
ホエールズ、ベイスターズ選手として最後の沢村賞投手である。

「なんといってもマウンドに立つ姿が格好良い!」
「スマートだよね」
「特に当時はまだまだ昭和ながらのずんぐり体系の選手が多い中、足が長くてスラリとした細身の遠藤がマウンドに立つ姿の、まあ映える事! ねえ奥さん!」

「本当ですわね!」

「184cmの長身から投げ下ろされるストレート、そして何より代名詞、伝家の宝刀フォークで三振を奪う姿!」
「なんといっても大洋ホエールズを支えたエース!」
「そう、先発ローテの谷間投手たちの谷間に遠藤が投げる感じだった時代もあったわね!」
「うーん、酷い言いぐさ!」

しかし事実、弱小ホエールズの時代には、遠藤が先発する試合以外は誰が投げるんだ。
みたいな感じであった。

「遠藤投手といえば印象的なシーンも多いよね」
「そうね、珍プレー好プレーでよく使われていたクロマティとの対決とかね」
「伝家の宝刀、フォークがくるのではと思わせておいて、ズバッとストレートで三振のやつだね!」
「その後、頭をちょんちょんと指さして、『ココだよ、ココ』って見せるのが堪らないわね!」

当時、巨人が圧倒的な強さを誇っていた時代。
対して横浜は「横浜大洋銀行」などとも言われていたりして。

巨人こそ正義。
そんな風に思える時代だったからこそ、遠藤のあのシーンは痛快であった。

「今でも見たい時に見られるyoutubeは良いわね!」
「野球が見られない時は過去の映像を!」
「でも同じ巨人戦で、悪夢が!
「ああっ、あのシーン!」
「巨人戦だけにテレビ中継していたから、あのシーンを生で目撃したときは絶望したわ!」
「……何歳?」

だが、当時のファンは皆同様だろう。
必死の形相で、片足けんけんで3塁に倒れ込むように滑り込んだ遠藤の姿。

結局、このアキレス腱断裂の怪我は投手としてかなり致命的ではあった。
1990年にクローザーとして21セーブをあげてカムバック賞をとるも、投手生命は縮まっただろう。
あるいは、勝利数も減った。

1992年の引退試合も対巨人戦! 苦手にしていた原は察してか凡退してくれたわね」
「横浜スタジアムが大満員になった試合だね」
「あたしも外野の立ち見にどうにか潜り込んだわ」
「だから年齢・・・・」
「140キロを超えるストレートにフォーク。まだ現役でいけるんじゃないかって思わせてくれたけれど」

遠藤一彦。

横浜大洋ホエールズとして横浜スタジアムを本拠地とした年に入団し。

横浜大洋ホエールズ最後の試合で引退した。

まさに横浜大洋ホエールズとともに生きた男であり、エースであった。

200勝をした平松でも、172勝した三浦でもない。
150勝にも満たなくても、遠藤こそが過去から今に至って誇るべきエースだと思うのである。

 

 

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